在りし日の姿を想い、その時の姿を目に焼き付けてきました。
いつまでも「大川小学校」を忘れません。
震災があってから8年後に、再び被害があった地へ。
前回の記事で書きましたが、
多くのところで復興が進んでいるのが見られ、
日本の底力を見たような気がして嬉しくなりました。
そんな中で、
今も思い出すと胸が苦しくなる場所があります。
岩手県石巻市の大川小学校。
児童74名、教職員10名が帰らぬ人となった小学校です。
震災3年後に行った時には、
周った被災地の状況があまりにもひどくて辛くなり、
大川小学校には行けませんでした。
でも、いつの日か必ず花を手向け手を合わせに行きたいと思っていました。
そして、また同じ地を周り、
ナビを頼りにやっと着いた学校を前にして、
涙が溢れて止まりませんでした。
横には川が流れ、反対側には山。
大川小学校は、自然豊かな地に建っていました。
静かで、穏やかで、すばらしい環境だったことが想像されました。
大川小学校は、とてもモダンな学校でした。
半円形の校舎、
その前にはコンサートでもできそうな屋外ホールのようなところがあって・・・。
そんな学校が、想像以上に悲しい姿になっていました。
在りし日の大川小学校の写真が飾られていて、
子どもたちの楽しそうな様子が見られました。
校舎の中や運動場では、
いつも子どもたちの明るく元気な声が響いていたでしょう。
大川小学校を訪れたのは、4月下旬。
雨風の激しい日で、もうすぐ春とは思えない寒い日でした。
震災が起きた日は3月。
その時より寒い中、運動場に集まっていた子どもたち。
津波が来た時は・・・。
などと考えると、今でもたまらない気持ちになります。
その場に行ったからこそ分かる「なぜ?」と疑問に思うこともありました。
それは、あくまでも私の考えなので、具体的には書きません。
書いてはいけないことだとも・・・。
家族に愛され、
地域の人から可愛がられた優しい 子どもたちばかりだったと思います。
生きていれば16歳から22歳。
きっと楽しい学生生活を送っていたでしょう。
そんな未来が奪われた子どもたちの御霊が、
どうか、どうかやすらかでありますように。
本来は、ようやく長い冬から脱して、
暖かくなる喜びの春が始まる3月ですが、
あの日から、
被災地は辛く悲しい3月になってしまったんじゃないかと思います。
大切な人を失った悲しみは、
10年たっても消えないでしょうけれど、
それでも、少しでも悲しみが癒され、
穏やかな日々を過ごされますように願っています。
今回、そして、前回の記事について、
東日本大震災への自分の想いを書きたい。
と、ずっと思っていたのですが、
書いていいものだろうかと迷っていました。
被災地の方たちの本当の気持ち、辛かった気持ちを考えると、
私が想う気持ちなんて、どれほどちっぽけなものか、
被災地の方が読まれたら、不快に思われるんじゃないか・・・。
思われた方、申し訳ありません。
でも、勇気を出して書かせていただきました。
東日本大震災を、大川小学校を決して忘れません。
大きな被害が出た他の地震も 忘れてはいけないと思います。
この先、被災地はもちろん、日本中が平穏な日々でありますように。
心から祈ります。
最後まで読んでくださいましてありがとうございました。